【わたしの背中に羽などなくて】

自分の心とからだをどうにか回すだけで精一杯だけれど、バイトだけはどうしても代わりがいない。だから、外勤先に出向き、回らない頭で考え、それで出した答えで処方をし、処置をする。けれど間違っていない自信はまぁまぁある、何故ならそれは、この1年半で既に慣れたことが多いからだ。食べ方を忘れたり、車の運転の仕方を忘れることが滅多やたらと起きないのと同じことだ。そしていつもより多めに笑顔を作り、診察に当たる。

きっと帰ったらぐったり疲れて、それでも眠れなくて、夜を浅い夢とともに過ごすのだろうけれど。

わたしを「愛している」と言う人の母集団はそれほど多くないが、その中で「死にたい」と言う人の確率が少なくない気がする。少なくとも5人はそんなことを言ったし、そのうち2人は実際に「殺して」と彼らの首にわたしの手をかけようとした。
「わたし」はきっと他人を不幸にする。それはわたしに生きていこうとする力がないせいかもしれないし、あるいは本当にわたしと一緒にいることで死にたくなってしまうのかもしれない。わからない。
どのみち「わたし」は他人を不幸にしてしまう。それは間違いようのない事実かもしれない。
せめて「医者としてのわたし」は、ひとりでも多くの生活と命を救えたらいいな、などと傲慢なことを考えてみたりする。
それとも、死ぬべきはわたしなのかもしれないね。

年に数回あるかないかのいわゆる「マジ切れ」。たぶんわたしもいっぱいいっぱいなのだ。それは幸せとか不幸せには関係なく、わたしが現在ほんのちょっとばかり病的な状態にあるから、だろう。ちょっとした刺激がわたしを暴発させそうになる。自分でもまずいな、と思いながら、電話の向こうの何の罪もない人に向かって激しく怒鳴りつけてしまった。
ごめんなさい。

裏口の木戸が開かない。押しあけたらば死体があった!倒れていたのは札つきのチンピラ。一見、平和な月波家には何のかかわりもなさそうな男だったが、事件をきっかけに、一家の生活が狂い出す。会社、家庭、人生…どこにでもあるウラとオモテを、苦い笑いのドラマの中に描き出す。

ブックオフの古本福袋の中の1冊。ちなみに、この福袋、赤川次郎が多かった。
最初の事件とその後の展開があまり関連していなかったような気がして、あとになって「そういえばあの事件はどうなったんだろう」と思うところがあった。月波家の次女で、実はちょっとしたワルの中学生・久子の活躍が面白い。赤川作品にはよく出てくるタイプの女の子だけれど、それぞれに個性があって面白い。(2001.11.4)

庵野秀明のフタリシバイ―孤掌鳴難

庵野秀明のフタリシバイ―孤掌鳴難

新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督と、演劇人たちの対談集。庵野氏の対談、というだけでも興味をそそられるが(なんだかデタッチメントのひとのような気がしているので)、相手が演劇人とあってはなおさら。文字で読んでしまえばその面白さは半減してしまうのかもしれないけれど、それでもかなり面白いものを見られた気がする。コミットメントとディスコミットメント。演劇は両方の要素を同じくらい持っているのかもしれないと感じた。

明日も明後日もその次もその次の日も、
あなたが一緒にいてくれる、と思ったら、
歳をとることも、そんなに怖くはないような気がしてくるのです。
(誕生日)