【さよなら、さよなら】

当直先にて。
帰る間際の時間に、看護婦さんからのコールがあり、病棟へ走る。
朝、酸素を増やし、日中は特に問題なく過ごしていたにもかかわらず、ほんの数時間で呼吸状態はすこぶる悪くなっていて、もうほとんど、いわば「かろうじて生きている」とでもいえる状態だった。モニターは60くらいの脈拍を刻みながら、それでも不整脈が頻発している。カルテを見ると、90歳を過ぎたおじいちゃん。この方に関しては、あえて救命はしない方針だった。あぁ、と思って、まず家族と院長に連絡を取ってもらった。
「○○さん、もうちょっとしたら娘さんが来るからね。それまでがんばってくださいね」
と言いながら待った時間はほんの10分ほどだったと思う。みるみるうちに酸素飽和度は30%台に下がり、脈はほとんど触れなくなり、血圧も機械ではかることが不可能になってきた。けれど、モニターはレート30くらいに落ちたけれどまだ動いている、そして瞳孔反射はまだある、生きている。はやく来て、お願い、と祈るような気持ちでその方の肩をなでる。
「おじいちゃん!」
家族の方が飛び込んできた。急いでベッドサイドの立ち位置を譲る。
「どうしたの、今朝来たときはまだ元気だったじゃない。わかる?私よ!おじいちゃん!」
その瞬間、非情に響くモニターのピー、という単一音。死亡確認。家族の方に頭を下げる。
あぁ、娘さんが来るのを待っていてくれたんだなぁ、と、本当のところは偶然なのかもしれないけれど、ちょっと泣きそうになった。待っていたそのおじいちゃんにも、急いで駆けつけてくれたその娘さんにも、自然に頭が下がる思いだった。
わたしのいる科では、ほとんど患者さんの死を目の当たりにすることはない。そして、わたし自身のプライベートでも、近い人の死をまだ経験したことがない。だから、死に関するわたしの意識は非情に浅薄だといえると思う。こんな仕事に就いていながら、恥ずべきことだとは思うけれど。
でもときどきこうして出会う「死」を、わたしはどう片付けていいのか、いまだにわからずにいる。ただひとついえることは、不幸な死に方はしたくないし、不幸な死に方はさせたくない、ということだ。
そして今日の方の家族の方のあの涙で、わたしは救われる思いがした。
おつかれさまでした、と敬意を込めて死亡診断書を書いていたら、思わず涙してしまったことは内緒。

くますけと一緒に (新潮文庫)

くますけと一緒に (新潮文庫)

著者曰く、ぬいぐるみホラー。でも怖くはない。ぬいぐるみのくますけといつも一緒にいないではいられなかった成美の、心の成長が感動的。「子供には親を嫌う権利がある」という言葉に、頭を殴られたような気がした。そうなのか。子供は無限の愛情を持って育てられる権利と、親を嫌いになってもいい権利があるのか。確かに。納得させられる。(2002.5.10)
実は、女の子であるにもかかわらず、あまりぬいぐるみは好きではなかった。ちょっと前まで。でも、あなたにもらった小さなクマのぬいぐるみをきっかけに、ふわふわもこもこした手触りがちょっとだけいとおしくなった。そんなエピソードと、くますけの無償の愛とがなんとなくリンクして。外で読んでいたのに、思わずぽろぽろ泣いてしまった。条件がなくても愛してくれる存在というのは、いくつになっても必要なのだ。(2004.1.31)

ナポレオン狂 (講談社文庫)

ナポレオン狂 (講談社文庫)

自らナポレオンの生まれ変りと信じ切っている男、はたまたナポレオンの遺品を完璧にそろえたいコレクター。その両者を引き合わせた結果とは?ダール、スレッサーに匹敵する短篇小説の名手が、卓抜の切れ味を発揮した直木賞受賞の傑作集。

いちばん好きなのは「サン・ジェルマン伯爵考」。不老不死の薬・エレキシイの秘密は深い。思わず涙が出そうになった。「来訪者」も軽いタッチながら少し重く、印象的。(2002.9.19)